近況その他あれこれ - 110
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250年前の「源太騒動」 浜崎維子さんの祖先の話
「人生の時間軸を前と後ろに広げて考える」シリーズ 2

 今回は時間を溯って、だいぶ昔の話です。浜崎(旧姓渡辺)維子さんから「またいとこから小冊子が届きましたので」ということで、お便りをいただきましたので、ご紹介します。事件にゆかりのある史蹟の写真とともにご覧ください。以下、まず事件の概要から。

gentasodo これは渡辺一族の内紛で、一乗寺ではいまだに語り継がれている。近年は 芝居やテレビで上演されかなり関心を高めているが、当時でも京洛に は噂の高かった事件らしく、河原芝居にもなった。草紙本などにも残っている。

 さて語り継がれている『源太騒動』と云うのはつぎのような話である。 起こったのは明和四年(1767)十二月三日である。即ち、足利時代末期の一乗寺、渡辺昌の後裔で代々同所に住む郷士・渡辺源太が、一族の渡辺団治長男・右内に自分の妹つやを縁づけることに約束をしていたにも拘わらず、団治家では無断で他家から嫁をもらうと云うことを聞いた源太は右内の結婚式当日つやを花嫁姿に正装させ同家に連れ、「お約束の花嫁確かにお渡し申した」と口上し妹の首を切り落とし、三宝にすえたと云うものである。

 これが事件のあらましであるが、明和四年十二月三日の事件であるというのは源太家の過去帳や系図に「蓮池院義誉法雪妙人大姉」とある人がこの悲劇のヒロインで、源太妹俗名つや、明和四年十二月三日没十七歳となっている。没した日が事件の日であり、源太二十六歳の時の出来事であった。

 ところで源太騒動の真相について国文学者浅野三平氏による詳細な調査がなされ、また裁判記録の側から野間光辰氏の厳密な客観化があって、それらの二論文によって、事件の概要をまとめるならば、次の通りであった。

 洛北一乗寺村、渡辺団治家は苗字帯刀を許された庄屋の家柄で、息子右内(二十歳)が役儀を相続していた。隣家の百姓源太(二十六歳)は団治家の同族だが、不仲で、母やえ、妹つや、弟軍治がいた。ところが若者にありがちな色恋沙汰とはいえ、右内とつやが密かに言い交わすという「身持放埒」「密通」(京都町奉行の「伺書」および「評定書評議之趣」の用語)の沙汰があった。うすうす様子を知った母やえ、兄源太は再三つやに意見をしていたが、娘心の一途に思いつめたつやは、これを聞き入れず、ついに村内の噂になってしまう。

 母はこのことを案じて、源太に命じ、団治に二人を一緒にさせるよう談判するが、その意志のなかった団治はかえって立腹し、冷淡に対応する。そして右内を折檻して、「即刻つやと分かれよ、手を切らねば家にも置かぬ。庄屋役も願い下げにする」と事件の数日前から右内を親類の家に追いやってしまった。

 仲に立つ村人がいて,それを介して右内・つやは今は分かれざるを得ぬことを納得した。しかし仲介者の不手際のため、右内の苦衷をしたためた手紙はつやに届かず、また分かれる前に今一度右内に遭って本心を確かめ、自分の真意も伝えたいと願うつやの気持ちも右内には届かなかった。このつやの「今一度遭った上で」という気持ちを、母は親・兄の意見を聞かぬ不幸の子と思い込んだ。そして母は源太に命じて、つや同伴の上、団治方に最後の談判に向かわせた。団治方の出方によっては、つやをその場で討ち果たすことも指図した。これを団治は取り合わず、右内も家にいず、今はこれまでと思った源太は一刀のもとにつやをその場で斬り捨てた。団治は眼前に行われた惨劇を見て、茫然自失、なすところを知らなかった。明和四年十二月三日のことである。

 源太はこの後、ただちに代官所に自首しましたが、代官所はこれを「密通・身持放埓」な子に対する家長権の正当な行使であるとして放免処分としました。この衝撃的な事件は世間のたいへんな話題になりました。特に源太の行為は「大丈夫(ますらお)」の志を持ち、妹とともに武家 のプライドを守った人物であるとしてもてはやされました。正確に言いますと渡辺団次家・源太家ともに身分としては農家で武士ではありませ ん。しかし共に武家を祖先に持つ郷士であり、彼らの行動論理には武士的な要素がありました。たとえば「恥と不名誉」を恐れる気風、事件後 ただちに自首する「潔さ」です。

 印象的なのは兄妹の母親の存在です。覚悟して死地に赴く兄妹の倫理観はまさにこの母親のものだと思わざるを得ません。ある意味では源太は母親の意思に沿って事を運んだとも言えるようで、「この事件の本当のますらおはこの母親ではないか」とさえ思えるのです。秋成の手記「ますらお物語」によれば、この事件を村人は源太の家に知らせに走った時、母親は機を織っており、「ではそのようにいたしましたか。如何せ ん、不憫なことを」と言っただけで機の音を乱しもしなかったといいます。この母親の態度は当時も理解しがたいものととらえられたようです。

 もうひとつ想像をかきたてられるのは、花嫁衣裳を着て死を覚悟して愛する男の家に赴く妹の心理ではないでしょうか。秋成の小説は、「切られた妹の首が微笑んだままであったとは気性猛々しいことであると人々は語りついだ」と結ばれていますが、非常に印象的です。

 この事件はその倫理性と猟奇性ゆえに小説や芝居の格好の材料になりました。まず小説としては建部綾足(たけべあやたり)の『西山物語』があります。これは明和五年二月、つまり事件後わずか二ヶ月で小説化されたものです。

 もうひとつ有名なのは、文化五年(1808)に上田秋成が『春雨物語(はるさめものがたり)』の一編として書いた「死首の咲顔(しくびのえがお)」です。秋成はこの文化三年四月に洛北円光寺の東照宮祭礼で事件後役四十年を過ぎた渡辺源太本人と会っており、その感動を記しています。

 また小山内薫演出により、南座において芝居にもなり、円地文子はこの事件を題材にした『ますらお』にて野間文芸賞を受賞しています。以上、またいとこから送られてきた資料と、ネットで調べて分かった『源太騒動』から抜粋して記してみました。私の生まれた洛北一乗寺で、250年前にこのような事件が実際に祖父の本家で起こったことは、今回またいとこから送られてきた小冊子を読んで、初めて知りました。そしてまた敷地は小規模ながら城趾を思わせる小高い丘になっているのですが、そこに建つ建物は250年以上前の物であり、蔵のひとつは1700年代から建っていることも初めて知りました。またもっとも驚いたことは源太が団治を訪ねた表玄関が当時のままであり、妹の生首を置いたといわれ古い数枚の板が蔵に大切に保管されていて、今回、彼が表玄関にそれらを並べて写真を撮っていることです。

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 私の祖父はその渡辺家の三男であったために分家して小作人同様の生活を余儀なくされていましたが、渡辺綱の末裔であるとされる生まれに誇りだけは持ち続けていました。戦前の法律により今のまたいとこは一歳にも満たない幼子の時にすべての財産を相続した人で、いまだに小さな城趾の当主を名乗って空威張りしております。

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 ちょっと付け足し: この記事は、我々の人生の時間軸を前と後ろに広げてみてもいいのではないかというシリーズを意図したもので、これが2回目です。子どもたちと先祖のことも含めて、自分の人生を考えてもいいのではないかと。お便りをお待ちしてます。


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上智大学外国語学部英語学科 昭和39年入学43年卒業組ホームページ
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