近況その他あれこれ - 102
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Red star over China (中国の赤い星)の路を辿って 

区長の任期が終わり5月〜6月にかけて中国に行ってきました。3年前シルクロード、チベットへ行った時は
90日ビザが取れたのに今回は30日になってしまいました。中国は大きいのでこの日数では行けるところが限られます。
故に紅軍(後人民解放軍)所縁の地を訪れることに決め、途中観光名所があれば立ち寄ることにしました。
大昔私はEdgar Snow の「Red star over China」 を読み感動しました。いまどき中国人でさえ
あまり訪れないであろう様な所もありましたが、それなりに面白かったので報告します。 岡田 真

泰山

1taizan北京発の新幹線(和諧)は平原を走り続け泰安(最寄駅)近くになってやっと山が現れた。泰山の海抜は1545米なので往復に9時間要すると言われたが本当にきついのかしらと思った。一天門から中天門までは普通だった。そこから南天門までは階段が長く急勾配で、最後の所は鎖に掴まってやっと登り切った。見回してみると私と同様の年齢の者はほとんどいなかった。秦の始皇帝を始め歴代王朝の多くの皇帝が登ったが、全部自分の脚で歩いて登ったのかしら。それにしても立派な階段をよくもこんなに多く作ったものだ。漢詩を岩に彫りつけた所が沢山ある。富士山に比べて海抜は半分以下だが、名山と言われる訳が解った。下りは傷めていた左足より右足が痛くなってしまった。中天門までやっと降り、バスに乗って宿に帰りついた。この時期、頂上からのご来光を見るために登る人が多い。彼らは頂上の宿に1泊するか、夜登って朝日を見ることになる。

 

曲阜

2訪れるべき所は孔廟、孔府(孔子の住居=論語を弟子たちに語った所)、孔林(孔子の墓を始めとする孔家の墓のある所)の3か所。通しのティケットが「61歳以上だと半額ですよ」と教えてくれたのでパスポートのコピーを見せたら本当に半額になった。3年前の新疆、西蔵への旅の時も既に資格者だったのに全く知らなくて大分損をした。日本でも外国人でも半額にしているのかしら? 半額にしてもらったので中国人のガイドを50元で雇って孔廟、孔府を案内してもらった。あまり解らなかったが孔廟が文化大革命中に紅衛兵から受けた破壊の傷跡の所は解った。目の前に証拠がある。ブルドーザーまで持って来たそうである。周恩来が懸命に守ったということは聞いていたが「批林・批孔」という運動もあり、やはり守りきれなったのだ。孔子は紀元前500年頃の人である。法隆寺が作られたのは600年頃なので、それより約1100年も前。それだけで畏敬の念を抱く。

徐州

3「徐州、徐州と〜」という軍歌があった。私が訪れたのはそれが理由ではない。日本ではあまり知られていないが徐州は国共内戦の勝敗を決定づけた「淮海(フアイハイ)戦役」があった所である。粟裕(ス−イー)将軍率いる人民解放軍60万と杜聿明(トウーイーミン)将軍率いる国民党軍80万がここで激突した。解放軍は人数だけでなく装備に於いてはるかに劣っていた。空軍は持たなかった。対する国民党軍はアメリカの援助により最新の装備を持った蒋介石直系の精鋭部隊であった。しかし勝ったのは解放軍である。戦いは最初囲碁の様に、即ち布石、包囲、奇襲等から始まり、途中から将棋(日本将棋では捕虜を戦列に加える事ができる=張る)の要素が加わった。人々の支持を得た解放軍が次第に優勢になり、最後は正面からの攻撃で国民党の80万を殲滅し、杜聿明を捕虜にした。殲滅と言っても殺してしまったのではない。大部分は捕虜になり解放軍に参加したのである。解放軍は人数でも勝り、アメリカ式の最新の装備を持った軍隊となった。1949年4月21日渡江作戦が開始された。蒋介石が東洋のマジノ線と豪語した長江は簡単に破られ、23日には南京の総統府が占領された。占領したのは済南で起義した元国民党軍の部隊である。毛沢東が北京の天安門で建国宣言した時、蒋介石はまだ成都にいて督戦していた。しかし11月には台湾に渡り以後大陸に帰ることはできなかった。私が徐州を訪れたのは淮海戦役記念館を訪れるためである。直ぐ隣軍歌と関係する博物館が「国防館」という名前であったのだが気づくのが遅く入れなかった。

韶山

4湖南省の旧名は湘である。毛沢東の生家がある韶山は湘の南部にあるので、堂々たる湘南(シャンナン)にある。しかし神奈川県の湘南にあったら「湘南を名乗るのはやめて欲しい」と言われるに違いない。それほど田舎で私の住む農村の40前の風景に似ていた。平地なのに千枚田なのである。人民公社の時代があったのでとっくの昔に碁盤目状で農道と用水路を持つ田に整備されていると思っていた。これでは農業の機械化は無理で、農民は中腰で田植えをしていた。これはとてもきつい仕事である。日本では稲作は機械化され一番楽な仕事である。昔と比べたら全ての作業が「あっ」と言う間に終わる。今中国は都市の改造、基盤整備に力を入れているが、その気になれば土地は国有ということなので日本より楽にできるのではないだろうか。収入を増やすことも大切だが、早く昔ながらの肉体労働から農民を解放してあげなければならない。毛沢東の生家に行く前に劉少奇の生家の「陽明楼」に立ち寄った。車で僅か40分の距離である。彼が湖南省の出身であることは知っていたが、こんなに近いとは思わなかった。

瀘定橋

5原案では長沙から井岡山、桂林、と回るはずだったがインターネットで天気予報を見たら1週間ぐらい雨模様で気温が低く大雨などという日もあった。梅雨寒のような所にわざわざ行くことはないと諦めて成都への飛行機のティケットを買った。直後に長沙から4時間の所に世界的に有名な張家界という所があり、天気は快晴、30度以上の予報が出ているのを知った。勿論成都への便もある。長沙まで行ってスルーするとは馬鹿だなあと悔やんだけれど後の祭り。しかし結論から言えば関係なかった。瀘定橋の名を知る人は少ないであろう。しかしこの橋は中国史に2度登場する。1度目、太平天国の石達開はこの橋を越えられず、清の軍隊に滅ぼされた。2度目、長征途上の紅軍は無事に越えて北上し抗日戦争、内戦を勝ち抜いて、彼らは中華人民共和国を建国した。毛沢東も周恩来もケ小平もこの橋を渡って行った。対岸の敵との戦いは Edgar Snow が詳しく述べている。敵軍により吊り橋の板がほとんどはずされていたため紅軍は22名の決死隊を編成し、援護射撃の下、鎖に掴まって這って前進した。敵は残りの板に油を撒いて火を放ったが、間一髪で決死隊は火の中を渡りきり、手榴弾を投げて敵陣を占領した。続々と兵士が橋を渡り終え、火を消し板を並べて無事紅軍が橋を渡れるようにした。現地に行って解ったことは、@低い橋(川面との距離が短い)であったこと A泳いだり、歩いて渡ったりはできない川であること。私が訪れたのが5月21日、紅軍は5月25日なので水量は同じぐらいだったと思われるが水が音を立てて流れていた。B決死隊の犠牲者は1名だったこと等である。帰りも6時間のつもりでバスに乗ったら、2時間ぐらい走った所で事故があり前に進めず、引き返して別のルートを取った。それも観光コースだったので「ラッキー!」と思っていたら大遠回りで、結局13時間かかり夜10時に成都に着いた。南米でのバスの旅みたいだった。

つづく→

2013.6.18


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