今年(2008年)の9月にカンボジアを訪問しました。その時の感想を「カンボジア雑感」としてまとめましたので、アンコールワットの写真と共に添付します。
9月15-22日まで初めてのカンボジア体験は相当にカルチャーショックの連続でした。
カンボジアは日本のほぼ半分の国土面積(18万Km2)で、東南アジア最長の大河メコン河流域のデルタを有し、稲作に適した肥沃な土地を持っている。プノンペンでメコン河に合流するトンレサップ河は雨季(5-10月)になると河が逆流し、遙か上流のトンレサップ湖(後述)の水位が上昇するとのこと。現地の人が「雨が降るとぬかるみ、太陽が照ると土埃」と言っていた。
過去アンコール王国(802-1431)が栄えたあと、シャム(現タイ)やベトナムの保護の下に置かれ、19世紀にはフランスの保護領(=植民地)(1863-1953)、戦後独立し、シアヌーク政権(1954-1970)が誕生するも、カンボジア内戦(1967-1975)が勃発、ロンノルのクーデター(1970)を経て、ポルポトのクメール・ルージュ(1975-1979)での知識人他200万人の大量虐殺の暗い過去を持つ。プノンペンの訪問先には「虐殺博物館」(元々は高校)があり、我々は行かなかったが「Killing Fields」(映画にもなった)と呼ばれる処刑場跡が各地にある。虐殺博物館では色々な拷問道具(鞭、鉄棒、水責め、火バチ責め等)が当時のまま置かれ、開放された時点での犠牲者の写真が痛ましい。更に別の校舎ではここに収容された犠牲者の写真が所狭しと並んでいる。逃亡した時に分かる様にと正面と横顔を撮っているが、知識人だけでなく、勤労者、農民、女性、子供と老若男女全てが犠牲となっている。教室をレンガで区切った独房は身体を伸ばして寝るスペースもない。ガラス戸棚に並ぶしゃれこうべに無念の思いを見る。
プノンペンのホテルは中心街に近いビジネス・ホテル。残念ながら設備・調度・対応も今一。 TVとエアコンのリモコンはチェックイン時に鍵と一緒に貰う(メキシコのアグアス・カリエンテスのホテルもそうだった)。そのリモコンが壊れている。市内のどの建物も基本的に最上階は風が通る吹き抜け構造でここで食事をする。泊まったホテルも廊下の突き当たりや階段に吹き抜けの窓が開いていたし、レストランは最上階だった。部屋でのインターネット接続は出来ず、ロビーに数台PCが置いてある丈、当然有料。街のところどころにインターネット・カフェがあるのも珍しくない風景。貧しい国なのに携帯電話はかなり普及している。一般の家屋の入口では靴を脱ぐ。床にござを敷いて座る。保育園でも子供たちはござの上で寝てました。
さて、今のカンボジアは人口14百万人、人口の48%は18歳以下の若い国。
一番の驚きはオートバイの多さと活用の多様さ。街中オートバイが走り廻り、道路を占有している感がある。通勤や家族の移動はまずオートバイでオートバイの数は車の50倍以上ではないか。オートバイの後ろの荷台部分は例外を除いて運転席と連続の長い座席。これに家族3人、多いときは4人、更にハンドルと運転者の間に子供が立って乗っている。オートバイ・タクシーが道を縦横無尽に走る。荷台が付けば、結構それなりの荷物を運んでいるし、リヤカーが付けば自動三輪と同じように使われ、それにベンチ型シートと幌が付けば2〜4人乗りの "トゥクトゥク"タクシーになり、横にサイドカー的に屋台を付けているものもある。これだけ使われればオートバイも本望だろう!? メーカーはホンダ、スズキ、カワサキ、ヤマハの他に中国製も散見された。
車は日本車と韓国車が大半(ペルーで見かけた様な日本語の宣伝や会社名がそのままの中古輸出車は見かけなかった)、プノンペンでは偶にベンツやBMW。道路はプノンペンの王宮付近や市内の幹線道路はまあまあだし、殆どの信号は青になるまでの秒数がデジタル表示される。しかし一旦中心部を離れると極端に悪くなる。市内でも非舗装、即ち泥道、があるし、プノンペンとアンコールワットのあるシェムリアップを結ぶ幹線道路も片道1車線、センターラインも半分消えかけている状況だし、路肩があってなきが如し。そこを観光バス、マイクロバス(庶民の移動手段)、乗用車、トラック、オートバイが走り、時には人や牛車が動いていく。信号はまずない。ここをクラクションを鳴らしながら、時には体感時速130Kmを超えるスピードで反対車線に出て遅い車を追い抜く。よくこれで事故にならないもの。
つづく